2004年3月:
レスリーのちょっと恥ずかしい写真、アップ!
ページ下方までスクロールしてをクリック!

追悼 アニタ・ムイ へ

前のページへもどる

2003年4月1日 19時過ぎ・・・
エイプリルフールのその日、そのニュースは突然飛び込んできた。


この道路側にレスリーが・・・

マンダリンオリエンタルホテルのカフェは、レスリーのお気に入りの場所だったらしい。恋人ともよくお茶をしていたという。
普段高層にあるそのホテルのスポーツジムの窓は開かない。
当時、香港はSARS騒ぎが絶頂の頃で、ホテル側の配慮で換気のために窓が開くようになっていたという。

その日、同居していた公認の恋人(香港では唐唐と呼ばれる、唐さん(男性)。レスリーは数少ないカミングアウトした俳優だった。唐唐はレスリーの長年の恋人である)に「車でマンダリンオリエンタルに行くから、あとでね(バトミントンの約束をしていたらしい。かっ、かわいい。)」と告げて、一人で外出したという。
そしてまさに「その時」、ロビーで待ち合わせをしていた昔のマネージャーが現れないレスリーに電話をしたところ、「今渋滞に巻き込まれてて遅れてる。正面玄関の前で待っててくれ」と告げたそうだ。
そして彼女が正面玄関に向かうと、空から人が落ちてきた。それがレスリーだったという。

死因については諸説ある。
唐唐とうまくいかなくなって悩んでいたとか、新しく付き人になった若い男の子ケニスとの三角関係のもつれだとかのお決まりのパターン(これはレスリーの友人たちが否定している)、
彼の遺作となった映画「異度空間」で自殺しようとするまで精神的に追い詰められた役(たしかにこの映画の彼は迫真の鬼気迫る演技だった)を演じ、その役がいつまでも抜け切らず、うつ状態(実際にうつ症状の悪い状態は続いていたらしい)がますます悪くなっていったとか(彼が飛び降り自殺しようとするシーンがあり、それがまるで予言のようで怖いという話もよく聞いた)
唐唐の話が載っていた記事では、「彼は監督になりたかったんだけど、それが叶えられず落ち込んでいた」とか、彼の自宅が風水的にかなり悪いとか(だからどうした)、タイに去年、恋人(唐唐は別の人?)のために買った家が地元で恐れられている曰くつきの家で、それを買って以来、おかしくなったとか、「実は去年の11月にも自殺未遂をおこしていた」いうことが書かれていた。

(地元の週刊誌の記事より。香港人の親友、Bettyに英訳して教えてもらった情報を日本語訳したもの。ただ、かなり「ゴシップ誌」的なものなので真偽の程は不明。噂話程度にとどめておいてください。)

まあ、どれも霊的というか香港らしい噂の域を出ていないものばかりだが、当時、よく日本にいる香港映画ファンの友人たちが問い合わせてきたような「人気の陰りがダメージになったのでは」とか「容姿の衰えに対する恐怖心からでは」「失恋自殺?」とかマイナスの理由を挙げる人が多かったのに、香港では案外そうでもなさそうで(わたしが知る限り)、ここでも、東京と香港の間の彼に対する見方の大きな違いを感じた。
そして、なにより、レスリーは2003年現在、香港で最も愛されたスターのひとりとして存在していた。(正直、旬はすぎていると思っていたので驚いたのが本音だ)

レスリーは、当時でも香港では「哥哥」(「お兄ちゃん」の意味)というニックネームでファンから愛されていた。
享年46歳。
いつまでも歳を取らないままでいるフシギな人だった。

遺作「異度空間」の中での彼が精神的に追い詰められていく様子、ビルの屋上にたたずむ様子は、やはり現実とリンクさせてしまい、見るのが苦しかった。考えてみると、その前の作品「鎗王」(2000年)でも、精神的に壊れていく人間を見事に演じていた。とはいっても、同じ2000年に公開した「恋戦。沖縄」ではフェイ・ウォン相手に、相変わらず「少年のようで可愛い浮き草のようなレスリー」だったけど(映画自身も感想の述べようがないほど軽いものだったが)。

彼の投身自殺の翌日から連日、追悼雑誌が発売され、テレビでは彼のコンサートの様子や映画を放映し続ける追悼番組が延々と続き、街では彼の歌が、街頭にあるテレビでは彼の映像がいつも流れていた。

彼が身を投げたマンダリンオリエンタルホテル脇にはファンが捧げる花束が増え続け、完全に歩道をふさいでしまった。でも、しばらくの間、ホテルも目をつぶっていたようで、4月半ばまで撤去されず、増え続けていった。


4月7日、レスリーのお葬式前日の公開告別式には、SARS騒ぎの渦中で、さらに雨だったにも関らず1万人ものファンが訪れたという。


レスリーの遺影

雨の中並ぶファンの列

斎場を囲む報道陣


【レスリー・チャンの出演映画】
それにしても、香港の人気俳優というのは出演映画数が多い。一体、一年に何本出てるんだ?
レスリーは1978年に「紅樓春上春」以来、遺作となった2002年の「異度空間」までの24年間の間に出演した映画はざっと約55本。
特に彼の代表作、そして世界的名作となった「覇王別姫(さらば、わが愛 覇王別姫)」に出演した1993年〜日本でも香港ラブコメブームがあった1996年までの間は年間平均4本出演している。

●前期 アイドル絶頂期●
1984年 レスリーは吉川晃司の「モニカ」(モニカですかっ!?)をカバーし、大ヒット。アイドル絶頂期に。ところで「縁(イ分)/behind the yellow line」ではデビュー間もないマギー・チャン&同じくアニタ・ムイと初共演作。この映画の中のレスリーはかなりヤバイ。
一目ぼれしたマギー・チャンを想い、空想にふけるレスリー。空想シーン。
ピンクのベッドで頬杖だ!やめて〜、レスリー・・・おっ、おもしろすぎる〜・・・。

ちなみに惚れられるマギーはこの顔。(デビュー直後の売れる前)
・・・まっ、まだかなり「before 大女優」の顔しています。

さっ、さて、この後、レスリーは1986年に日本でもヒットしたジョン・ウーの傑作「男たちの挽歌1(英雄本色T/A Better Tomorrow I)」(え?レスリー出てるの?という方も多いことでしょう。しっかり出演しています。主人公の弟役〜刑事になって事態をどんどん悪くしていく〜にて)、1987年にはかの「チャイニーズゴーストストーリー1(倩女幽魂T)」(これも、「え?レスリー出てるの?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ジョイ・ウォンの相手役が彼です。アイドルまっしぐらでとてもラブリー)で、アイドル街道を突き進みながら、順調にヒット作に出演を重ねる。

が、1988年、いきなり引退宣言してカナダに移住。
するも、半年であっさり復帰。(ファンの悲しみをどうする?)
レスリーは山口百恵の大ファンだったというが、それもこの「アイドル絶頂期に引退」してみちゃった、という彼の行動に影響しているのかもしれない・・・ちなみにレスリーは山口百恵の「さよならの向こう側」をカバーして歌っているし、アニタ・ユンと共演したコメディ(くだらなくて大好き!)「金玉満堂/The Chinese Feast(日本語読みしないように。金銀財宝で家がいっぱい、安定した暮らしや豊かさを願うおめでたい言葉でお祝い事の時によくかかげられている・・・)では、百恵を追ってカナダに移住するためにコックになろうという意味不明な計画をたてる(百恵がカナダ?)チンピラを演じている。「伊豆の踊り子」は必見・・・か(百恵ちゃん、怒らないでね。)。


●後期 俳優絶頂期●
アニタ・ムイ(レスリーの親友だったひとり。2003年12月30日子宮頸がんにて急逝。詳細は「追悼アニタ・ムイ」ページにて)と再び共演した「Rouge ((月因) 脂扣 )」のヒットなどを経て、冒頭でセリフを引用したウォン・カーウァイの「欲望の翼 (阿飛正傳/Days of being wild)」に出演したのは1990年のこと。
ここでのアタリ役、まさにレスリーにしか出来ない役を演じ、アイドル路線を脱し、俳優としてゆるぎない地位を確立、レスリー・チャンは独特の魅力は炸裂しはじめた、とわたしは思う。この作品で、香港金像奬(香港アカデミー賞とでもいうようなもの)で最優秀主演男優を受賞。
そして、1993年チェン・カイコーの「さらば、わが愛 覇王別姫(覇王別姫/Farewell to my concubine)」で、悲劇の京劇役者(女形)を熱演、その「美貌」は世界でも高く評価され、まさに香港を代表する大俳優のひとりに。「覇王別姫」は、カンヌ映画祭で大賞を受賞、日本映画批評家大賞主演男優賞、作品賞なんていうのも受賞していたりする。

1996年前後は、俳優絶頂期とも言えるほど、出演作品に恵まれている。
チョウ・ユンファがブレイクしたドラマのリメイク「上海グランド(新上海灘/Shanghai Grands)」でアンディ・ラウと麗しい共演、「色情男女/Viva Erotica」は、香港映画界(というか世界の映画界にも共通する)の裏側、製作者たちの苦悩をストレートにズバッと描いた良作(おまけに、スー・チーのフルヌードも見られる)では映画監督役、再び「覇王別姫」のチェン・カイコーと組んだ「花の影(風月/Tempress Moon)」の芸術的ドラマ、上記山口百恵の記述の際に挙げたとおり馬鹿馬鹿しいナンセンスコメディ「金玉満堂/The Chinese Feast」での徹底したコメディぶりも見もの。他、数々のラブコメものにも出演。
そしてカンヌ映画祭には、1997年に出演した「ブエノスアイレス(春光乍洩/Happy together)」でも主演男優賞でノミネート、ウォン・カーウァイとともにすっかりカンヌ好みに。(わたしもこの頃大好きだった)

レスリーは、子供が大好きだったそうだ。「花の影(風月/Tempress Moon)」で彼の子供時代を演じた子役を撮影後、養子としてむかえた。どれだけ子供が好きか、ということは1999年の「流星 (流星語/The kid)」の彼の表情を見ればわかるだろう。いいなー、あの子・・・。

そして、いくつかの話題作を遺し、2003年4月1日、彼は自ら彼のストーリーに幕を閉じてしまった。


【歌手レスリー・チャン】
実は香港では、レスリーは歌手として絶大な人気を誇っていた。(海外では「俳優」の顔がメインだが)
歌手としてのレスリーのステージは・・・これまた独自のレスリーワールドが炸裂している。
胸をはだけ、シースルーの衣装に身をまとい、パツンパツンの衣装や下着姿、セミヌード、「バスローブみたいな衣装のすそが舞台の下から吹く風でまいあがる〜」という、おまえはマリリン・モンローか、というシーンも見られるコンサートの様子。
それはもう、ナルシストぶり全開、ストレートなお色気パワーむんむんだ。
ああ、わたしのレスリーが・・・。わたしはどうも直視できない。すみません。

 2004年3月7日UP
そんなレスリーのこんな恥ずかしい写真・・・見たいですか?
後悔先に立たず。覚悟して臨むべし。ここをクリック



【追記 香港のマスコミ】
それにしても、香港のマスコミの勢いを、このとき思い知らされた。
レスリーが投身自殺を図ったのは香港時間の18時半ごろだったし、それがテレビで報道されはじめたのはその1時間あとくらいだったと思う。
夜だ。
が、翌日のには、新聞だけでなく、街中にレスリー特集の雑誌が(飛び降り自殺した現場などの写真やレスリー関係者へのインタビュー記事なども入っている)が、ズラリと並んでいた。中身も濃い。いつ作ってるんだ?と愕然とするわたしに、香港人の友達は言った。
「え?そんなの、香港じゃ普通よ」と。
香港、おそるべし。
ちなみに、「頭部爆開」 「哥哥墜地後頭部爆裂」っていう表現・・・広東語になると妙に強烈である。

【一周忌】  2004年4月2日UP
2004年4月1日、彼の一周忌にファン達が再び結集、追悼式が執り行われた。
追悼レスリー・チャン一周忌ページにて当日の様子をレポート。


追悼 アニタ・ムイ へ

前のページへもどる

Special Thanks: Betty

"I've heard on earth there's a kind of bird without legs that can only fly and fly and sleep in the wind when it's tired. The bard lands only once in its life, that's when it dies.".....


「阿飛正傳/Days of being wild」(1990年・邦題「欲望の翼」)というウォン・カーウァイの創った傑作のひとつの中で、レスリーが語る「足のない鳥」の詩のような短い物語。

2003年4月1日 18時40分頃、マンダリンオリエンタルホテルの高層階にあるスポーツジムから飛び降り、自ら命を絶ったレスリー・チャン。
訃報のニュースが飛び込んできたとき、この物語を思い出した。まるで、彼のことだったみたいだと、わたしは思った。


追悼 レスリー・チャン アニタ・ムイ

追悼レスリー・チャン一周忌へ