追悼 アニタ・ムイ

2003年12月30日早朝、香港の女優である梅艶芳(アニタ・ムイ)が子宮頚がん悪化による肺機能低下で死亡した。 享年40歳。同年9月に自ら癌であることを公表してから、たった3ヶ月。その間芸能活動も抑えながらも続けていたという。若いと癌の進行は早いとは聞くけど、それにしても早い・・・。こわい。

この時点で、テレビは彼女の訃報一色、またしても街は追悼雑誌であふれていた(早い)。
が、正直なところ、わたしはレスリー・チャンの時ほどの感慨は持っていなかったのである。
なぜなら、「よく知らない」からだった。うっかり、「アニタ・ユンが!?(1990年代半ばの香港映画のラブコメにでまくっていたキュートな女優)」と勘違いしたくらいだ。

香港人の親友からメールが来た。
「りえ!知ってるよね?アニタが亡くなってしまったわ!一日中彼女の音楽を聴き、追悼番組を見ているわ、仕事のあと夜中までテレビに釘付けになってる」と。
レスリー・チャンの時と同じ反応だ。

「ニュースは知ってるし、雑誌も見かけたけど、実はわたしあまりよく知らないの」

というわたしの反応は、彼女を驚愕させた。「信じられない!!彼女をよく知らないなんて」。

その後、嫌でもアニタ・ムイの存在はわたしの中で大きくなっていく。
テレビをつければ延々つづいている追悼番組、街を歩けば追悼雑誌が山積み、そして、街頭のテレビでは彼女のコンサートの映像が流れ続けている。そのテレビの前ではおじいちゃんやおばあちゃんまでもが足を止めて釘付けになっている。

ただでさえ、新暦のお正月はなんの変化もないここ、香港(街はクリスマスのままだ)、2004年のお正月は追悼ムード一色だった。
新暦の元日は特別な日でもないとはいえ、西洋かぶれであるためカウントダウンイベントは派手にやる香港であるが、話によると、アニタ・ムイ急逝のニュースを受け、喪に服すということでいくつかのイベントは中止になったらしい。


2003年、レスリー・チャンに続き、アニタ・ムイまで失った香港は、2つの偉大なるスターを失ったのである。(ちなみに、レスリー・チャンとアニタは親友であり、妹のように、兄のように理解しあっていた仲だったということは、わたしもレスリーの訃報時に知った。)

そして、数日後、わたしはメールをくれた友達とランチタイムを一緒に過ごしていた。
彼女は、アニタ・ムイがいかに偉大なる存在であったかを延々と語り続けた。生い立ちからの経歴つきだ。

ここで、気がついた。

香港人と香港人スターの距離は、日本や他の国のそれと比べて非常に近いということを。

香港中がアニタ・ムイの死去を嘆き悲しみ、そして、彼女の功績を讃えて、伝えようとしている。

まるで 香港総アニタ・ムイの親戚状態である。

ちなみに、レスリー・チャンのときも、今思うと同様の現象が起こっていた。その時フシギに思わなかったのは、わたし自身が彼のファンだったからだろう(香港人たちの嘆きに同化していたとも言える)。


【アニタ・ムイについて】

親友がわたしに語ったアニタ・ムイについて。

「彼女は去年(2003年)の秋に自分がガンであることを公表して、闘病しながら芸能活動をそれでも続けていた。11月にはコンサートがあって(亡くなったのは12月)、わたしはやっぱり行くべきだった。彼女は彼女の姉妹も同じ病で失っているの。だから・・・「もしかしたらこれが最後のチャンスかも」とふと思っていたのに・・・。それが現実になるなんて」

「彼女は、あまり家庭に恵まれていなくて(大家族に生まれて、女の子だったのであまり重宝されなかったという)、4歳から舞台に立っていた。彼女は幸せな結婚にあこがれていたのに、それもかなえられなかったし、まだ40歳、まだこれから自分の人生を楽しまなくちゃいけなかったのに!

・・・すでに「アニタの親戚状態」に突入している。

「どうして日本ではアニタはあまり知られていないのかしら。アニタは、山口百恵を尊敬していたの。だから、彼女は山口百恵になりたくて、絶頂期の1991年に一度引退もしているのよ、2年でカムバックしたけど」

・・・ううむ、レスリー・チャンと同じ行動(「追悼レスリー・チャン」ページをご参照ください)をしている。それにしても、香港において「山口百恵」というのは未だにやはり「伝説」であるらしい。

話は少しずれるが、香港人スターがことごとく歌うことに違和感を感じているわたしは、うっかり香港人相手に「映画スターが人気歌手でもあるって、香港独特だよね」と口走ってしまったkとがあるが、

「そんなことない、日本でも”山口百恵”は歌ってたでしょう」

と言い返された。「時代が違う」と思ったが、事実だけに、返答に困ったものだ。
でも、その頃は確かに日本もスターといえば「歌って」「演じて」いたのは確かだ。いろいろあるなあ(とごまかしてみる)

さて話を戻そう。アニタ・ムイだ。

「そういえば、知らないの?近藤真彦(マッチでーす)が、お葬式に来ていたわよ、彼は日本で有名なスターでしょ、アニタ・ムイと一時期つきあってるという噂があったのよ」

・・・初めて聞いた。マッチファンの方、もしいらしたら、そんな報道、聞いたことあります?(お葬式に来ていたのは事実です。)

また、1月11日のアニタ・ムイの公開告別式には7,000人のファンが訪れ、親族や関係者をあわせると10,000人近くにのぼったらしい。葬儀には、香港特別行政区政府の董建華・行政長官からの(香港で一番偉い人)花輪も送られていたことをニュースで見た。12日の火葬の際は、葬儀場を出るアニタ・ムイの乗った霊柩車を1,000人のファンが見送ったということだ。葬儀はブルース・リーの葬式以降最大の警備状態で執り行われたという。


レスリーとアニタの死去、どっちが香港に衝撃を与えたのかな、というわたしの愚問に友達は

「比べられないくらいどちらも大きいわ。ただ、レスリーは自殺だから。香港では自殺はネガティブな理由で、受け入れられないけれど、アニタは闘病の結果だから、アニタのほうがみんなストレートに悲しみを表しているかもしれない」

と答えた。

【アニタ・ムイ経歴】

コンサートの様子、テレビに出演している彼女を見る限り、限りなく「宝塚」の男性役に近いイメージだ。ステージはかなり華麗なる妖艶なレビュー。そして、やっぱり「男装の麗人」風のスタイルが多い。
と思っていたら、1990年には香港映画「川島芳子」で、まさに男装の麗人の代名詞、「川島芳子」を演じていた。見ていないので、これは見なくては。共演はアンディ・ラウ。調べてみたが、どうも日本では公開されていないらしい。

「香港の百恵ちゃん」、または「香港の美空ひばり」とも呼ばれていたという彼女、好きな歌手には山口百恵とともに、西城秀樹もあげていたという。ヒデキと共演をしたこともあったようだ(テレビでデュエットしているところが放映されているのを見ることができた。さらにヒデキもお葬式には来港、参列したらしい)。好きな国も「日本」ということで、かなり親日家だった様子。
あまり知らないなんて言ってごめんなさい。

日本では、あまり彼女の名前は知られていないと思うが、実は1990年の「酔拳2」ではジャッキー・チェンのお母さん役として出演している。
彼女、ジャッキー・チェンともかなり親しかったようで、亡くなったその日、訪れていた多くの友達に最期を看取られたそうだが、その中にはジャッキー・チェンもいたということだ。
ルックスどおりの姉御肌だったようで、芸能界での交流はかなり広く、慕われていたらしい。

●歌手として●
友達が教えてくれた通り4歳(5歳という記事もあったが)からステージに立ち、1982年にコンテスト優勝をj経て18歳で歌手デビュー。同年の音楽祭で受賞、なんと東京音楽祭で翌年アジア音楽賞を受賞したらしい。
以降、「曼珠沙華」など山口百恵のヒット曲を何曲かカバーしたり、順調に歌をヒットさせ、華やかなコンサート(とても宝塚)などでファンを魅了。

●女優として●
前述のとおり、「酔拳2」(1990年)のジャッキー・チェンのお母さん、と言えば顔が思い浮かぶ人もいるかもしれない。コミカルな演技やアクションを得意とし、「新Mr.Boo!お熱いのがお好き」(1985年)、「新Mr.Boo!香港チョコ・コップ」(1986年)にも出演している。

1984年、「緑(イ分)」(レスリー・チャンと共演。「追悼レスリーページ」ご参照ください)で映画初出演。いきなり香港金像賞の助演女優賞を受賞。というが、なにが評価されたのか、正直よくわからない。
その後、女優としても活躍、1987年には同じくレスリーと共演した「(月因)脂扣」(Rouge)で香港金像賞と台湾金馬賞の主演女優賞を受賞。わたしも、親友に「アニタの映画の最高はこれよ」と一押しされた。
歌手としての活動がメインだったようで、彼女の場合は出演映画自体はそれほど多くない。
現在、レスリー・チャンとアニタ・ムイ、2003年に急逝した二大スター共演作である「緑(イ分)」(Behind the yellow line)、「(月因)脂扣」(Rouge)のVCD/DVDはかなり売れているようだ。(かく言うわたしも買っている)

2001年には、日本の女優、純名里沙(なんかしぶい・・・可愛いけど)と共演した映画「慌心暇期(Midnight Fly)」という映画が公開されていた。日本では公開されたのだろうか。
2003年、チャン・イーモウ監督の武侠アクション「LOVERS」で、アンディ・ラウ、金城武、チャン・ツィイーと共演することになっていたそうだが、体調が思わしくないため出演を断念していたということだ。


【もっとアニタ・ムイ】

「アニタのことを日本に向けて書こうと思ってる」と伝えたら、大喜びした友人。
今度会うときには英語版のアニタ・ムイについて書かれた雑誌や本をいくつか見繕ってプレゼントしてくれるという・・・。えっ、ええっ!と内心思うも、ご好意はありがたく頂戴するべきか。それを見れば、アニタ・ムイがどんな人生を送ってきたか、そしてどれほど偉大かがわかるのだという。
次回、更新時には、わたしはおそらく「アニタ通」。いや、もしかしたら「アニタの親戚状態」になってるかも・・・?
ついては、勉強後、さらに詳しい内容を記載していきたいと思うので乞うご期待。   
2004年2月 りえ (2004年3月更新予定)

・・・と思っていたが、以降、あまり目新しい情報はなかった。(かたじけない)
ひとつだけ、彼女が命をかけてかなえたかった夢のことを書いて、この追悼ページを終えさせていただくことにする。
彼女が山口百恵を尊敬していたことは前述のとおりだが(引退してみた、というのも前述したとおりである)、彼女の命を奪った原因となった病は「子宮ガン」であった。わかった時点で摘出していれば、今も彼女は存命だっただろう、と言われている。
なぜ、彼女が子宮の摘出を拒んだか・・・彼女は最期まで「山口百恵のように、子供を産み、幸せな家庭を築きたい」という強い、絶対に叶えたい夢を捨てることができなかったからだそうだ。
結果、その彼女の固執した夢は、彼女の命を奪ってしまった(予想よりも病状が悪化するのが早かったというのもあるだろうが)その話は、同じ女として、心が痛かった。



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Special Thanks: Betty.

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このページの文末に、アニタ・ムイが「女性として」最期まで諦められなかった夢を追記しました。
2004年3月